―― 英語支配の異論 批評・紹介
英語教育に携わっていると、「英語は世界共通語である」「英語ができれば将来の選択肢が広がる」といった言説を、ほとんど疑うことなく受け取ってしまいがちです。
それらは確かに一面の真実ですが、本書は、その“自明視されてきた前提”に静かに、しかし鋭く異論を投げかけます。
英語は本当に中立な言語なのか。
英語を教えるという行為は、どのような価値観や力関係を再生産しているのか。
この本は、授業方法を教えてくれる本ではありません。
英語教育そのものの立ち位置を問い直す思想書です。1990年代の本ですが、読む価値のある書籍となっています。
この本と私の出会い
私がこの本を手に取ったのは、大学三年生の前期、アメリカ留学から帰国した直後でした。
留学を通して、英語を学ぶことは人間としてのスキルアップにつながる――そう強く実感していた時期であり、同時に、これから自分はどのような英語教師になりたいのかを真剣に考え始めた頃でもありました。
その中であえて、英語教育に批判的な立場から書かれた本を読もうと思ったのは、英語教育を否定したかったからではありません。
むしろ逆で、批判的な視点を知ったうえで、それでもなお英語教育の正当性を引き受けられる教師でありたいと考えたからです。異なる立場の議論に触れることは、教師としての厚みにつながるはずだ――そう思い、この本を手にしました。
読み始めたときの第一印象は、正直に言えば「過激だ」というものでした。
英語を疑うことなく価値あるものとして捉えていた当時の私にとって、本書の主張は強い刺激を伴うものでした。しかし読み進めるうちに、その過激さは単なる否定ではなく、英語がもつ力や影響を真正面から問い直そうとする姿勢から生まれているのだと感じるようになります。
この本に出会う以前、私は日本語や自国の文化について、深く意識したことがありませんでした。
英語を学ぶことで視野が広がる一方で、自分自身の言語や文化、価値観がいかに無自覚な前提の上に成り立っていたのか――そのことに初めて向き合わされた感覚が、今でも強く残っています。
結果としてこの本は、私にとって英語を見る視点が変わる転換点となりました。
英語を教えるとは何をしているのか。
その問いを、今も考え続ける原点の一つです。
本書が突きつける核心的な問い
本書の中心にあるのは、
英語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、歴史的・社会的に「力」として機能してきた言語である
という視点です。
英語は、植民地主義や経済的支配と結びつきながら世界に広がってきました。その結果、「英語ができる/できない」という区分は、能力差以上の意味を帯び、社会的な序列や排除を生み出してきた側面があります。
本書は、英語教育そのものを否定しているわけではありません。
むしろ、英語が特別な価値をもつ言語として扱われてきた背景を、私たちはどれほど自覚しているのかを問いかけています。
教師として感じた違和感と批評
現場で英語を教える立場から見ると、本書の議論すべてに全面的に同意できるわけではありません。
英語が生徒の可能性を広げる場面を、私は何度も見てきましたし、現実的には英語を学ぶ意義を無視することもできません。
それでもなお、この本が重要だと感じるのは、
自分の授業や評価のあり方を、立ち止まって見直す視点を与えてくれるからです。
「英語を使わせること」が目的化していないか。
「できる生徒/できない生徒」という視線で教室を見ていないか。
本書は、そうした問いを教師に突き返してきます。
英語の授業・評価とどうつながるのか
本書を読んで以降、私は「使える英語」という言葉を、以前ほど無自覚には使えなくなりました。
パフォーマンステストや言語活動は、本来、生徒が自分の考えを表現するための手段であるはずです。しかし、評価のための活動になった瞬間、英語は「力を測る道具」へと変わってしまいます。
英語を学ぶことが、
誰かと比べられるためのものなのか、
それとも、自分の世界を広げるためのものなのか。
その分岐点に立っているのは、教材でも制度でもなく、授業を設計する教師自身です。
この本をおすすめしたい先生
この本は、即効性のある授業アイデアを求めている人には向いていません。
しかし、次のような先生には、強くおすすめできます。
- 英語教育に違和感を覚え始めている先生
- 留学経験や高度な英語力をもちつつ、その意味を問い直したい人
- 方法論の前に、「なぜ英語を教えるのか」を考えたい人
教師としての厚みが欲しければ、必ず一度は読んでおきたい一冊です。
参考文献
- 英語支配の異論
大石俊一、水野義明、伊藤陽一、中島義道、楠瀬佳子 著
津田幸男 編著
第三書館 1993年


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