― 感想共有で終わる授業の構造を読み解く ―
※本記事は、学習指導要領や教科書を解説・要約するものではありません。
現場教師の立場から、道徳の授業が「どこで深まり、どこで止まるのか」を整理した個人の考察です。
目次
「悪くはない。でも、深まった気がしない」
道徳の授業を終えたあと、
こんな感覚が残ることはないでしょうか。
- 生徒は発言していた
- 話し合いも成立していた
- それなのに、どこか手応えが薄い
「失敗ではない。
でも、“よい授業だった”と言い切れない。」
この違和感は、決して珍しいものではありません。
そしてそれは、教師の努力不足や力量の問題だけで起こるものでもありません。
むしろ、道徳という教科そのものがもつ構造が、
授業を浅く終わらせやすい条件を含んでいるのです。
道徳は「話し合いが成立しやすい」教科である
道徳は、生徒にとって発言しやすい教科です。
- 正解が一つではない
- 自分の感じたことを言ってよい
- 経験や感情と結びつけやすい
そのため、
- 感想が出る
- 意見が並ぶ
- 話し合いが続く
という状態は、比較的自然に生まれます。
しかし、ここに一つの落とし穴があります。
「話せている」と「考え直している」は別物
道徳の授業では、次のような発言をよく耳にします。
- かわいそうだと思いました
- 勇気があると思いました
- すごい行動だと思いました
これらは、教材を理解した結果としての
ごく自然な反応です。
ただし、ここで立ち止まる必要があります。
それは本当に、
生徒の考えが動いた結果なのでしょうか。
それとも、
- 教師が想定していた方向に
- 予定通りの言葉が
- きれいに並んだだけ
なのでしょうか。
多くの場合、生徒はすでに、
- 思いやりは大切
- 正直であるべき
- ルールは守るべき
という価値を知っています。
感想共有で終わる授業では、
**価値の「再確認」**は起きても、
**価値の「再構成」**は起こりにくいのです。
道徳が浅くなる典型的な授業構造
多くの道徳授業は、次のような流れをたどります。
- 教材の状況を整理する
- 登場人物の行為を追う
- 心情を考える
- 感想を共有する
この流れ自体は、間違いではありません。
問題は、
④がゴールになってしまうことです。
心情理解や感想共有は、
「考えたように見える地点」ではありますが、
必ずしも「考え直した地点」ではありません。
なぜ「分かり切った答え」に着地してしまうのか
授業が浅く終わるとき、
話し合いは次のような言葉に収束しがちです。
- 思いやりが大切
- 相手の気持ちを考えるべき
- ルールは守らなければならない
どれも正しい。
しかし同時に、授業の最初から共有されている価値でもあります。
生徒は、
- 教師の期待
- 教室の空気
- これまでの学習経験
を読み取り、
「場に合う答え」を選んで発言します。
そこにあるのは、
思考の挑戦ではなく、適応です。
道徳の「深い学び」は、どこで生まれるのか
では、道徳における深い学びは、
どこで生まれるのでしょうか。
それは、
- 自分の考えが揺れた瞬間
- 当たり前だと思っていた価値に違和感をもった瞬間
- 他者の考えによって、見方が広がった瞬間
です。
つまり、
「分かった」ではなく「迷った」瞬間に、
道徳の学びは深まり始めます。
深まりを妨げているのは、生徒ではない
ここで強調しておきたいのは、
道徳の授業が浅くなる原因は、
生徒の意欲や発言の質ではないということです。
多くの場合、
- 問いが、答えに近すぎる
- 結論が、最初から見えている
- 教師が「よいまとめ」を急いでいる
こうした授業設計そのものが、
思考の揺れを起こしにくくしています。
第1回のまとめ
道徳の授業が浅くなるのは、
失敗しているからではありません。
むしろ、
うまく進みすぎている
からこそ、
思考が揺れないまま終わってしまうのです。
次回予告
次回は、
「心情理解」はどこまで必要で、どこから危険なのか
というテーマを扱います。
心情理解は、
道徳授業に欠かせない一方で、
深まりを止めてしまう分岐点にもなります。


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